水沢なお より

22歳の詩人の日記

掌編小説/みずうみ

f:id:mizusawanao:20180617141915j:plain


 早朝に湖を見たことがありますか、まだ一日が始まったばかりの、うっすらと、爪の三日月の部分にほんの少しだけ青を混ぜたような、そんな静かな水が誰に望まれるわけでもなくそこにあるわけです、その水面から、数センチくらい離れたところから、だれかの吐息が、白い靄が、すうすうと、それまた誰に望まれるでもなく立ち昇っている。水面はきれいです、靄もなく、さざ波もなく、手のひらでそっと撫でた砂浜のように滑らかで、静かで、呼んでも返事がない。そして靄と水面のその間隙は、誠実なほど、なにもない。そんな気がします。あなたは湖とか、来たことありますか。それを美しいと思いますか。ぼくは産まれたばかりの頃、湖に連れてきてもらったことがあります。後になってその話を両親から聴いたわけではありません。でもぼくは知っています。その湖の記憶は無いにもかかわらず、その時の両親の会話をぼくは覚えているような気がするのです。話によると、ぼくの両親は湖から立ち昇る靄の、その美しさに胸をうたれ、わずかに湿気った心のまま抱き合い、そうしてぼくを身籠ったそうです。互いに確認しあうような会話を、確かにぼくは耳にしていました。背の高いうすきみどりの葦のなかで、おそらく二人は互いに二人きりだと思っていたはずです。ぼくはかすかに申し訳ないような、それでいて厳かな気持ちになります。腕の中のぼくはまだ言葉もしゃべれないほど小さな身体をしていました。ぼくにもなぜそのときの会話を記憶しているのか、全くわからないのです。赤ん坊だった頃の記憶をほかに思い出そうとしても、まるで思い出せず、広大な暗闇の中にぽっかりと光る沼を見ているようでした。

二人きりだ

 まな板の上で桃の実を切り分けていた彼がふと呟いた。コテージの備え付けの木製のまな板は、桃の果汁を吸ったところだけ色が濃い。そう口にした後も照れるでもなんでもなく、真剣さはかけらも変わらずそのまま桃に刃を入れる。コテージに向かう途中のスーパーマーケットで、その痛んだ桃を買った。ジュース用、と銘打たれたそれはわずか五十円だった。ねえ、これ食べようよ。うれしそうな顔をして、その桃をかごの中に入れる。柔らかく、かすかに黒ずみ、触るだけで形の崩れてしまいそうな、甘ったるい匂いを放つ果実。ぼくは、はい、とだけ言って、その果実が彼によって選ばれるところを見ていた。ぼくは、この人がこの桃に気が付かなければよかったのにと思った。でもあの人はぼくと二人でその痛んだ桃を食べたかったのだ。それだけのことだ。それはわかっている。

 桃は丁重に扱われている。皮も身も種も汁も、すべて、再びを実を結びそうななくらいに。ぼくはみぞおちのあたりがぞわぞわするのを感じた。なんだか現実味のない光景だった。彼がキッチンに立つ姿は珍しい。でもそれだけじゃない、ぼくは今だって、この人と一緒にいることが、はっと不思議に思うことがある。中学生の頃、回答し終わったテスト用紙を裏返しぼうっとしているときふと手のひらを見て、自分が生きていることがはっと不思議になることがあった。自分が五本の指を持っていることや、その皮膚の色、その下を巡る血管のかずかずを凝視していくうちに、なぜぼくはこの形をしているのだろうと、どくんと突きつけられたような気になった。それは時折訪れる淡く光る真っ白な時間だった。

 この人と過ごしていると、それと同じ淡い光が、ふと、射し込むのだ。

「桃食べてるとさ、手とか口とか、痒くなってくんじゃん、あれどうしたらいいんだろうね」

 青いソファに並んで座って、彼の剥いた桃を二人で食べて、ぼくたちはコテージを出た。空を見上げると、星のひかりがよく見えた。暗闇の重さが眼底を叩く。懐中電灯で隘路を照らすと、うすい翅の擦れる音が近づいてくる。あっという間に虫に囲まれる。彼らはさっきまで、どこにいたのだろう、と思う。

「走光性っていうんですって」

「なにが」

「こう、虫が光に向かって駆けてゆくことを」

「ふーん」

 木々の間に一本道があった。ぼくたちはそこへ向かって歩いた。

「むかし、誘蛾灯ってあったじゃないですか、コンビニの裏とかに、青い光で。おれはそれをじっと見ているのが好きでした。塾の帰り道、自転車を止めて道路を跨いだ遠くからずっとながめてるんです」

「へえ」

「そういうのを、半年くらい続けていて、ある日クラスメイトにバレてやめました。おまえってそんなやつなんだねって、それだけ言われて、でもそれだけでやめました。まったく接点のないやつでした、テニスの授業で、緑色の金網に寄りかかっているのを見たことがあるくらいで、おれとは違って、日に焼けていて、体操着が似合ってなくて、他には何も、部活も性格も、勉強ができるかどうかも知らなかった」

「なにそれ」

「なんなんでしょうね。ほんとう、すみません」

 落ち着かなくて、顔を撫でようとしたら指が唇に触れた。桃の苦味だけが残っていた。そのクラスメイトは今は登山雑誌の編集者をしていると風のうわさできいた。グシャグシャになった黄色いセロファン。中身のないビニールテープ。本当は少しの間、並んでその青い光を見ていた。

 唯一の光源はフッと矛先を変え、眩しさに顔を歪める。確かめるまでもなく、あの人が懐中電灯を向けている。

「眩しいですよ」

 そう答え、光から目をそらした。暗闇を見ても、その光が網膜に焼き付いている。明るくなどないのに、光の形だけがよく見える。

 しばらく歩いていると、水の気配を毛先が感受した。林を抜けた先には、湖がある。ぼくは当初から、湖に行きたいと彼に告げていた。そのために二人で歩いていた。ぼくは背負っていたリュックからレジャーシートを取り出し、水から少し離れた場所にそれを敷いて、並んで座った。レジャーシートはかざかざ音がした。大人の男が二人で無理やり座っているのだから当たり前だ。少しもしないうちに、もうシートの下に敷かれた土や草のつゆが染みてきて、慌てて臀部を触ったけれどそこは乾いていた。

 

「おまえって、やっぱちょっとおもしろいよなぁ」

「なんで?」

「だってさぁ、どこにだっていけんのに、湖ってさぁ」

「わるいですか」

「ううん、全然」

 おもしろい、と言われただけで、否定されたような気になってしまう、自分のさもしさを、奥歯で噛み潰す。苦虫、ぼくの思う苦虫は、黒くて細長くてぐなぐなした芋虫で、だからぷちっという音が、いつも脳裏に響く。彼の苦虫はどのような姿かたちをして、どんな殖え方をするのだろう。教えてほしい、そうしたらきっと二度と忘れることはないだろうから。

 初夏とはいえ夜は冷えた。ジャンパーの上から毛布を掛けて、身を寄せ合う。

 そうだ、とわざと声に出して、リュックをがさごそと漁る。コテージから運んできたバーナーをできるだけ平らな土の上に置き、レバーを回す。しゅうしゅうとガスが漏れ出す、そこに柄の長いライターを近づけると、ぶわっと大きく火が灯った。ミネラルウォーターで満たされたケトルをその上に置き、煮えるのを待つ。マグカップにフィルターとインスタントコーヒーをセットし、お湯を注ぎ、コーヒーを抽出する。手元は彼がずっと照らしてくれていた。ケトルから流れ出す水はなにか硬さのある物質のようにきらきらと光った。ぼくは手元が震えそうになるのを必死で押さえつけていた。どれだけ平然としたふりをしていたって本当は、この人の隣りにいることが、逃げ出したいほどに怖い。

 マグカップを引き寄せ、やたらに濃いコーヒーを二人で飲んだ。夜明けはまだ遠い。

 コテージの壁には、陽に灼けた写真が掛かっていた。真っ白な四角のまんなかに、薄い灰色の線が、とぎれとぎれに引かれている。よく見ればそれは湖だった。それを横目に見ながら、ぼくの裸体はシーツのうえをゆらゆらと揺れていた。

「ねえ、寒いよ」  

 ぼくは彼の手を握った。それはとても冷たいものだった。ぼくはこの人のことが本当に好きなのだ。それがたまらなく不思議になって、矢庭に恐ろしくなった。

 
おわり

なにもない土曜日の11時15分に捧ぐ