水沢なお より

ラメ入り

詩/変身

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変身

 

 友だちに会いに、電車へと乗った。私のなかで、最も古い友人が、家に招待してくれたのだ。
 手紙を読み返すと、古くさい花柄の便せんに、くせのある字が並んでいる。
わ、と、れ、の書きわけが曖昧。ら、は、いつもどこかひらけている。る、の形はどこかいびつで、カップの底にひとりだけ、ゆらゆらと沈んでゆく角砂糖みたいだ。
 封筒には、薄い写真が一枚、同封されていた。それを車窓に透かしてみる。彼女の指紋が、ひとつだけくっきりと浮かびあがる。

 彼女の家は横浜の外れにあり、二階からは青い屋根が見えた。
 彼女の部屋はこざっぱりとしていたが、どことなく祖母の家で見た母の部屋を思い出させた。
「久しぶり」
「幼稚園ぶりだよね」
「うん、六歳ぶり」
「十三年ぶり」
 私が笑うと、彼女も、ベッドに座ったまま歯をのぞかせた。
 幼稚園の頃の面影は残したまま、それでいて、妙にほっそりとした首が、ふとまばゆかった。
 ミモザ色の空気を吸って吐いた、受粉したばかりの丸い花が喉を転がり落ちていった。彼女の唇の上はどこよりもやわらかそうだった、剃った眉の青さがふと、恥ずかしくなった。でもきっとそういうことではないのだと私はわかっていた。
「そうだ」
 カバンの中からバジルシードを取り出して、彼女に手渡した。
「なあにそれ」
「知らない?」
「たまごみたい」
「だって卵だもん」
「何の卵?」
「昆虫」
「ああ、そうなんだ」
 そのまま彼女は瓶の蓋をあけ、何百もの卵を、つるつると喉に流していった。
 とろっと傾く、無数の黒い核が、すべて私のことを見ているような気がした。
「ねえ、昔さ、虫はかせになろうって約束したの、覚えてる?」
「もちろん」
「図鑑を作ったよね。三ページくらいしかないやつ」
 実家を探せば、まだどこかにその図鑑はあるはずだ。手書きの、幼稚園の庭にいる虫だけ収めた完璧な図鑑。でもいつだったか、その庭でしか咲かないはずの花が、神経内科の前で咲いてたことがあった。私はそれを全て手折って、河の中にばらばらと流した。
「あと写真、見てくれた? 手紙と一緒に送ったやつ」
「うん」
 私は、頷いた。そうして、あの写真に収まっていた彼女の姿を思い出した。
 薄く切った瓜のような翅だった。
「触ってみる?」
 彼女はパジャマを着たまま笑っている。
「……やめておく」
「そんな、伝染らないよ。病気じゃないもん」
 彼女は、パジャマの裾を、両手でぎゅうと掴んだ、そしてその手はつぎつぎと布を集め、仄暗い、腹の真ん中に空いた穴が見えた。
「そういうわけじゃなくて……」
「じゃあ、どうして?」
「壊したくないから」
「そんなやわじゃないって」
「やわらかいよ、虫の翅って」
「よく知ってるね」
 私は彼女が飲み残したバジルシードを一口飲んだ。ふう、と息を吐いた犬歯に、一粒種が挟まっていた。
「私って虫かな」
「虫ではないと思う」
「じゃあなんだろう」
「あなたはあなたでしょう」
「くだらないこといわないで」
「じゃあなんて言えばいいの」
「なんだっていいよ」
 彼女は、私のスカートの端を掴んでいる。そのことに、いまさらになって気がついた。
「たくさん殺した?」
「なにを?」
「私のことは、殺さないのに」
「何の話?」
「私のお母さんはよく泣くの、かわいそうだって泣くのよ、何がかわいそうなのか、私はずっと知らないの」
「あなたも泣くの」
「私ずっと泣いていたわ、初めて会ったときから」
「……そんな」
「だって私たち、恋する必要がないのよ」

 夕暮れが迫っていた。彼女の目蓋はいつの間にか重たくなっていた。
 私が床においていたカバンを持つと、乱暴な、素手で殴るような気配があたりに漂い始めた。
「もし私が昆虫だったら、あなた、虫はかせになれるかもしれないね」
 

 私はなぜか、あの日河に捨てた花のことを思い出していた。花は不思議なほど簡単につちから離れていった、シーツの上に広がる彼女の長い髪、美しいと思ったことなど一度だってなかった、私はたまたまあなたより姿が大きかっただけだ、この手のひらが、たまたま、走りゆくあなたの身体を、いともたやすく手に入れることができたように、けものに小指を喰われたって、私は抵抗するつもりなどなかった。
「あなたが、きっと、私に名前をつけるんだ、鳥も、草花も、惑星も、生んだ母親でも、神さまでもなくて、見つけた人が名前をつけるのだから、あなたが名前をくれるべきなの。私に名前を」

 次の日、エーテルを注射しようと、朝五時に部屋を訪れると、彼女は眠っており、その背中には翅も何もなく、ただなだらかな背骨のかたちが浮かんでいるばかりだった。

 私はわざとくしゃみを二回した。机の上に、昨日まで無かったおけが置いてあって、中を覗いたらたくさんの種が注がれていた。バジルシードがプラスチックのおけを満たしてゆく様を思った、彼女の歯は幼児のように小さかった。

 

——

 

数年前に書いたものです。